なぜ50年前の写真が今も新鮮に感じられるのか?
先日、久しぶりに森山大道の展示を見に銀座に行ってきた。この日も朝から死ぬほど熱く三越の交差点から会場の画廊までわずか何ブロックかの距離がやたらと長く感じました。
点数は少ないものの、その中に細江英公と三島由紀夫の写真があったので思わず見とれていると何か昔の写真のようでいて最近撮ったかのような新鮮味が沸き起こってきたので、これは昨年見た中平卓馬の展覧会の時と同じ感覚だなあとふと思い返した。なにかまるで昨日撮影されたような生々しさと新鮮味がありました。
昨年、中平卓馬の展示も見たときもこれに似たような感覚だった。

森山大道が細江英公のアシスタントをしてたのを知ったのは割と最近だったように思う。
写真史を辿ると日本の歴史も同時にたどれて面白いことに気づいた。
なぜあの時代の写真は、心を揺さぶるのか。そんなことを考えてみようと思う。
1960年代という激動の時代背景
まず、時代の空気から感じ取ってみるべく1960年代に遡ると、細江英公(1933-2021)が活動の頂点を迎えた1960年代は、日本が戦後復興から高度経済成長へと駆け抜ける、まさに激動の時代の頃だ。
街の風景は日々変わり、人々の価値観も大きく揺れ動いたそんなとき、学生運動が盛り上がりを見せ、前衛芸術が花開く一方で、経済成長に伴う豊かさへの憧れも広がっていく。そんな複雑で矛盾に満ちた時代の空気感がが、写真表現にも大きな変化をもたらしていったのではないかと思います。
それ以前の写真といえば、「美しく撮る」「正確に記録する」ことが当たり前だったはず。しかし、この時代の写真家たちはそれまでと違い今までの常識を覆すような表現を次々と生み出していったように思います。
細江英公:前衛芸術の交差点に立つ写真家
細江英公という人を知ったのは最近になってからだと思う。単なる写真家という枠を超え、1960年代の前衛芸術運動の中心にいて、さまざまな分野のアーティストたちを結ぶ文化的媒介者のような役割を果たしていたようです。
特に印象的なのが、舞踏家・土方巽との仕事です。土方は暗黒舞踏(アンクラ)の創始者として知られる人物で、既存の舞踊の概念を根底から覆すような前衛的な身体表現を追求していた人です。
また、三島由紀夫との交流もインパクトがありました。単なるポートレートを超えた凄みが感じられます。
細江英公の写真技法も革新的だったようです。当時としてはかなり異端的に見えたんではないでしょうか。
youtubeで昔の動画が残っていて独自の日本的表現へと試みが見て取れます。
森山大道はなんで細江英公のアシスタントはやめてしまったのか気になるところです。
そして、細江英公と対照的な立場に立ったのが中平卓馬でした。1960年代後半から1970年代前半にかけて、中平は写真批評家・写真家として、細江が代表する「作家性重視」の写真表現に対して鋭い批判を展開したようです。
「氾濫」に込められたメッセージ
中平卓馬の代表作「氾濫」(1970年)は、彼の写真哲学が凝縮された重要な作品です。このタイトル自体が当時の社会状況を象徴しています。1960年代後半から70年代初頭の日本は、学生運動や政治的混乱、急激な都市化など、まさに様々なものが「氾濫」している時代でした。

中平卓馬は技術的な完璧さよりも、その瞬間の生々しさや緊張感を優先する。画面がぶれていても、ピントが甘くても、そこに写っているものの存在感や現実性の方が重要だという考え方だったようです。
この作品を実際に見てみると、50年以上前の作品なのに驚くほど新鮮味を感じます。それは中平が流行や時代の表面的なスタイルを排除して、もっと根源的な「見ること」「存在すること」の核心を捉えようとしていたからでしょう。今の世の中も別の意味で氾濫しているように思う。
なぜ今も新鮮なのか?時代を超える写真の力
細江英公と中平卓馬、この二人の対立は単なる個人的な表現の違いを超えて、「写真とは何か」という根本的なものを投げかけたんだと思う。
特に中平卓馬の写真には、時代を超越した何かを感じます。彼は写真というメディアの本質的な力を、誰よりも純粋に信じていました。装飾を排除して、写真が持つ根本的な「記録する力」に賭けた結果として、時代を超えた新鮮さが生まれているのでしょう。
一方で細江英光の作品は、1960年代という時代の空気をより強く纏っているように感じられます。
SNSで日常を切り取り、瞬間を記録することが当たり前になった近頃。私たちは毎日のように写真を撮り、シェアしています。そんな今だからこそ、展覧会に足を運ぶのは昔の写真家たちが追求した「写真の本質」について考えてみるいい機会となる。
写真を撮る時、少しだけ立ち止まって考えてみる。そうすることで、私たちの日常の写真も、もっと深い意味を持つかもしれません。
森山大道がまた好きになりました。






